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【MS62】1835年 オーストリア フェルディナンド1世 神聖ローマ帝国フランツ2世 追悼 銀メダル

SOLD OUT
入荷困難!
神聖ローマ帝国最後の皇帝から、
「唯一鑑定品」の希少性高いレアコインのご案内です。

■デザイン

表面:フランツ1世(神聖ローマ帝国フランツ2世)
銘文:FRANCISCVS I AVSTRIAE IMPERATOR

裏面:フランツ1世(神聖ローマ帝国フランツ2世)の死去を悲しむ3人の婦人、傍にハプスブルク家を表すライオン
銘文:VITA REDIT BONIS POST MORTEM DVCIBVS

■状態

MS62

■コイン詳細

【発行年】1835年
【発行国】オーストリア
【NGC鑑定枚数】1枚
【素材】銀
【重量】約22g
【直径】約41mm
【表面】フランツ1世(神聖ローマ帝国フランツ2世)
【裏面】フランツ1世(神聖ローマ帝国フランツ2世)の死去を悲しむ3人の婦人、隣にライオン
【NGC鑑定】MS62

■ポイント

*希少性
NGC社唯一鑑定品
鑑定済コイン唯一の1枚!
特筆すべき希少性を誇ります。

*状態
MS(未使用品)評価!
約200年前とは思えないすばらしい状態を保持しています。

*市場性
ハプスブルク家、オーストリア皇帝は歴史的にも有名で世界中のコレクターから非常に人気があります。
さらにオーストリア皇帝フランツ1世は、
ナポレオン戦争後消滅した神聖ローマ帝国最後の皇帝と歴史的魅力も抜群です。

神聖ローマ帝国コインは世界中のコレクターが注目します。
その中でもレアなこの1枚。
お手ごろな価格のうちにぜひコレクションしていただきたい逸品になります。

▼コインのストーリー

■概要

神聖ローマ帝国最後の皇帝が描かれた激レアコインになります!

■神聖ローマ帝国とは

神聖ローマ帝国(Holy Roman Empire)は、中世から近世にかけての中欧地域に存在した政治的な連合体で、現代のドイツ、オーストリア、ベルギー、オランダ、チェコ、スロバキア、スロベニア、ルクセンブルク、スイスなどにまたがり、962年から1806年までの間続きました。

神聖ローマ帝国は、ローマ帝国の後継国家を自称し、神聖ローマ皇帝によって統治され、神聖ローマ皇帝は、神聖ローマ教会(Catholic Church)の支持を受け、神の意思によって選ばれたとされていました。

神聖ローマ帝国の成立は、フランク王国の皇帝カール大帝の死後、東フランク王オットー1世がイタリアを征服し、教皇ヨハネス12世によって962年に皇帝に戴冠されたことに始まります。以降、神聖ローマ帝国は、諸侯が自らの領土を支配し、皇帝は主に外交や司法を担当するという、分権的な政治体制が確立されました。

神聖ローマ帝国は、ドイツを中心とした中欧に広がり、領域は時期によって拡大や縮小を繰り返しました。帝国の領土は、選帝侯や帝国直轄領、自由都市などに分かれ、地域によって政治や社会の制度が異なっていました。

神聖ローマ帝国は、中世ヨーロッパの政治・文化・宗教史にも大きな影響を与えています。帝国内の諸侯や都市国家は、相互に競い合いながら文化や技術の発展を促し、キリスト教文化の拠点としても機能しました。また、宗教改革の時期には、神聖ローマ皇帝やカトリック教会との対立が起こり、帝国内部でも宗教分派の対立が深まりました。

18世紀に入ると、神聖ローマ帝国は国際政治において影響力を失い、プロイセン王国やオーストリア帝国などの国家に取って代わられることとなります。1806年には、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトによって解体され、1806年8月6日に神聖ローマ皇帝フランツ2世は、自らの皇帝の地位を廃止し、神聖ローマ帝国はその歴史に幕を閉じました。

■オーストリア皇帝フランツ1世(神聖ローマ帝国フランツ2世)とは

フランツ1世(1768年2月12日 - 1835年3月2日)はハプスブルク帝国(オーストリア)の君主でハプスブルク=ロートリンゲン朝第4代、そして神聖ローマ帝国ひいては史上最後のローマ皇帝(ローマ皇帝としてはフランツ2世、在位:1792年 - 1806年)。ローマ皇帝として退位する前に初代オーストリア皇帝フランツ1世(在位:1804年 - 1835年)を兼ねることで皇帝の称号を維持しました。

フランツ1世は、神聖ローマ皇帝として18世紀末から19世紀初めにかけて統治したオーストリアの君主。オーストリアのハプスブルク家の出身であり、その家系は神聖ローマ帝国の創設者であるカール大帝の血を引いていました。彼は若い頃から教育を受け、多くの言語を話し、音楽や美術にも熱心でした。妻であるマリア・テレジアの支援を受けて、政治的なキャリアをスタートさせています。

フランツ1世は、神聖ローマ帝国皇帝の在位期間は1792年から1806年までであり、激動のフランス革命の時代に統治を行っています。彼は革命の影響を受け、フランスに対する戦争を開始しました。1792年にフランス革命政府はオーストリアに宣戦布告し、フランツ1世は神聖ローマ皇帝としてフランスとの戦争を指導しました。しかし、フランスの軍事力はオーストリアを圧倒し、フランツ1世は敗北を喫してしまいます。

その後のナポレオン戦争の影響で神聖ローマ帝国は解体されフランツ1世は最後のローマ皇帝となりました。しかし退位前の1804年にオーストリア皇帝フランツ1世として戴冠し、オーストリア帝国を創設。その後もフランスと戦いますが、1809年、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトに再び敗北を喫してしまいました。

激動の時代を統治し、治世においては国家運営をメッテルニヒら臣下に任せる場合が多かったが、質素な生活を好み、その在位もローマ皇帝時代・オーストリア皇帝時代を通して40年の長きにわたったため、晩年は国民からも親しみを込められて「善き皇帝フランツ」と称えられていました。

■フェルディナンド1世とは

フェルディナント1世(1793年4月19日 - 1875年6月29日)は、オーストリアの皇帝(在位:1835年3月2日 - 1848年12月2日)。ハンガリーの国王(ドイツ語版)としてはフェルディナーンド5世(1830年9月28日 - 1848年12月2日)。「善良帝(ドイツ語: der Gütige、チェコ語: Dobrotivý)」とも呼ばれていました。

1793年4月19日、最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世とその皇后で両シチリア国王フェルディナンド1世の長女であるマリア・テレジアの長男として誕生しています。姉にはフランス皇帝ナポレオン1世の皇后マリア・ルイーザがいます。

1804年にオーストリア帝国が成立すると、ハプスブルク家史でオーストリア史上初の皇太子となりました。帝位は選帝侯によって選出される非世襲のものとする選挙君主制の建前から、神聖ローマ帝国には皇子や皇太子という身位は存在せず、したがってフェルディナント以前のハプスブルク一族は皇帝の息子であってもローマ王やオーストリア大公でしかありませんでした。

フェルディナンド1世はあまりの病弱さから帝位継承の実現が危ぶまれたが、相続順位法を遵守しようとしたフランツ1世と、次代に病弱な皇帝を戴くことで引き続き実権を握ろうとした宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒの思惑が一致し、次期皇帝となりました。

1848年に3月革命が勃発すると、会議を牛耳っていたメッテルニヒを罷免しその後自らも退位することになります。オーストリア帝位継承順位に従えば、すぐ下の弟フランツ・カール大公が子女のないフェルディナントの後継者になるはずだったが、すでに国家会議のメンバーとして旧体制の垢がしみついていたこともあって彼は帝位継承を辞退し、代わってその長男フランツ大公が「フランツ・ヨーゼフ1世」として帝位についています。

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